Hirokazu in 奥三河 その2
長篠城を守り抜いた城主の奥平貞昌はその功により織田信長から一字を賜り「奥平信昌」と称す。
そして、家康の命により長篠城の豊川沿い下流、郷ヶ原にあらたに城を築いて移る。
新しい城だから「新城」。しかしすぐそばにすでに「新城」と呼ばれる城があったため(?)「新城城(しんしろじょう)」というヤヤコシイ名前の城となった。
ここに家康の長女・亀姫を正室として迎え(これは合戦以前からの約束)、その子孫は家康の外孫として厚遇されたとか。
で、その城あとへ行ってみる。
ココは出張先のすぐ近所なので昼休みにちょこっと寄るコトが出来るのだが、ほぼ小学校の敷地なのである。
写真左奥に土塁の一部が残ってるぐらいのモノである。
しかし、この小学校の校門はちょっとお城っぽい。
校庭の端にまわると、倉庫の裏に土塁が残る。
土塁の内側は植栽やら石碑やら説明板やらのオンパレード。
城とは直接カンケーないが、
土塁そばに建つ小学校旧校舎。二宮金次郎がよく似合う。
こうして見るとたいしたコトないように見えるが、
堀(と思われる谷)は深く、土塁の向こうはけっこうな崖で、いきなり豊川が裾を洗う。
長篠同様、河岸段丘の端に築かれた城なのであった。
城の外郭を形成してたと思われる田町川も、
長篠城を彷彿とさせる「渓谷」である。
行く事は出来なかったが、ココからもう少し川を下ったトコには野田城という「武田信玄が狙撃されてそのキズがモトで死んだ」伝承をもつ城もある。
その野田城も勝頼がボロ負けして武田氏滅亡のキッカケとなった設楽原も今はみな「新城市」。
とことん武田と相性の悪い土地のようである。
| 固定リンク
コメント